「やっぱり子どもだって他人だからさ」毒親について一言言うなら。

「やっぱり子どもだって他人だからさ」毒親について一言言うなら。

わが子を自分の分身のように勘違いしてしまうのは、親としては非常に危険な勘違いだと思うのです。子どもは自分と同じ道は歩まないし、自分と同じ考え方も後悔もしない。

きょうの家族言

※きょうの家族言は家族に関するひとり言みたいなものです。エントリとは関係ありません(*´ω`*)

今日は保育参観。
0歳から一緒のみんなが2〜3歳になり、一緒に遊んだりしゃべったりしている姿を見るのは、何とも言えず嬉しい気持ちになります。
子どもの成長はもちろんだけど、先生達の忙しいこと!
ずっと休む間もなく、色んな工夫をしながら子ども達の相手をしてくれます。
先生が子ども達に絵本や歌や踊りをして遊んでいる間に、他の先生が外に出る準備をしたり遊んだ後片付けをしていたり。
チームプレイで、スムーズに滞りなく保育をしてくれていました。
こうした先生たちの努力があるから、僕たちは安心して仕事をすることができるんだなぁ。本当にありがとうございます。

毒親!

こんな記事を読みました。
まさか自分の親が・・・多くの親に潜む「毒親」の兆候

良かれと思ってついつい「親の理想」を子どもに押し付けてしまう。
意見をしっかりとぶつけ合って、ディスカッションできるのなら良いのだけど、その猶予を与えずに親の経験の中だけで決めつけてしまうこと。
決して珍しいことではないんだろうなと思う。

野球をやらせたかった父

自分のことで思い返せば、うちの父は僕に野球をとてもやらせたかった。(※毒親と言うほどではないが、趣味として)
休みの度にキャッチボールをして、それはだんだん練習のようになっていきました。
でも、全然やりたいと思っていなかった僕は、全く上手くならなかったし、球技全体が嫌いにもなった(球技全般が苦手なのは、このせいだけではないけれど)。

特に野球に関してはつい数年前まで、見ることすら嫌いだった。

「できるようになる事」を強要するよりも、「楽しさ」を教えた方がずっといい

自分の経験を振り返った時、野球の楽しさを父親と一緒に共有した記憶が何もない。

当時は夕方になるとTVで必ずナイターをやっていて、父はそれを見ていた。
僕は見たいアニメやテレビを見ることができずに、意味もわからないのに流れ続ける野球の試合が憎らしくて仕方がなかった。

つまり、土日のキャッチボール中も、平日の食卓時も僕が野球を嫌いになる要素でいっぱいだったのです。

一方、うちの妻は義父母も妻もサッカーが大好き。
そんなサッカー一家な妻家を見ていると、なぜうちが野球一家になり損ねたのかが何となく見えてきます。

それは、楽しさを共有しているかどうか。

一緒にスタジアムに行って、観戦はもちろん、そこに売っているグルメを楽しんだり。
戦術について語り合ったり。
選手について話し合ってみたり。

そこにはサッカーってこんなに楽しいんだぜって言う気持ちが溢れているのです。

勉強だって、スポーツだってきっと同じ

親ができなくて後悔したから、子どもには同じ後悔をさせたくない。
この気持は多くの親が持つ自然な気持ちのように思います。
でも、「後悔」は自分で経験してみてはじめてするもの
してもいない後悔のために努力なんて、できないんじゃないかと(少なくとも僕はできない)思う。
※経験を積み重ねることで、後悔するであろうことを自分で読み取り、そうならないようにすることはできるようになりますが。

それよりは、習わせたい事を一緒に楽しむとか、その楽しさを伝えてあげて、子どもが自分から「やりたい!」と思うかどうかを大切にしてあげたい。

これは勉強だって同じ。
僕もこの歳になって、「学生の頃にもっと勉強していたらな」と思うこともあります。
でもそれは今になって学びたいことができたから、それを学びたいのです。

学びたい気持ちがないのに、何かを勉強したって身になる事はきっと少ない。

やっぱり子どもだって他人だからさ

2歳くらいの子どもから見ると、親や大人ってある意味全能的存在。
良い、悪いの判断の基準になっている。
その子どもから発せられる全幅の信頼感が、ともすればわが子を自分の分身のように勘違いしてしまう原因にもなる。

でも、子どもは自分の分身じゃない。

当たり前だけど自我があって、自由な選択肢を持っている。
自分の生き方や幸せのあり方を決めるのは、自分自身でしかないのです。

さいごに

妻に対してもそうだけど、家族だからと言うだけで「他人である」と言う前提を忘れてしまいがち。
信頼して寄り添い合うのと、グズグズに甘え合うのは全く違う。
これは、子どもとの関係性においても同じなんだろうな。

 

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