当たり前の積み重ねの行く末が「妻の気持ちが解らない夫」だとしたら。。。
家庭内で、冷えたビールが出てくるのが当たり前。
帰ったら晩ごはんがあって当たり前。
子どもがいても、キレイに片付いていて当たり前。
そんな当たり前の積み重ねの行く先が、「妻の気持ちが解らない夫」なのだとしたら、こんなに怖いことはないなぁ。
きょうの家族言
ごはん中に娘さんが遊び始めると、ちゃんと食べるように叱ります。
あんまりフザケたり、食べ物を投げたり、お皿をひっくり返そうとしたら取り上げて言い聞かせます。
そんな風に叱っていた昨夜。
娘さんが遊び始めて、妻が叱りました。
しばらく睨み合うふたり。
1歳9ヶ月の娘と妻の一歩も引かないにらみ合い。
女同士の静かな戦いに恐怖を覚えました。
「察して欲しい」が人間関係に与える影響
こんな記事を読みました。
夫婦のコミュニケーションを研究したバウコムが、
「妻が従順であるほど、中長期的に見て、夫婦関係が悪くなっていく」という研究結果を発表しています。妻が夫に対して従順になるということは、妻が夫のワガママをケアする役割(=母親代わりの役)を担うということであり、それが夫の心理的退行(子どもがえり)を促すので、夫は家庭においてますますワガママになり、やがて夫婦関係が悪化するということなのです。
とのこと。
以前、察してコミュニケーションについてや、子どもっぽい夫についてブログでも書きましたが
まさにその結果が、この研究結果で表されています。
結婚するとなぜか妻を「お母さん」のように扱ってしまう夫は結構多いようです。
自分の親がそういった関係だったとしたら、無意識のうちに「そうするものだ」って感覚に、夫婦共に陥ってしまうのかもしれません。
いわゆる「いい妻」と言うのが、「従順さ」だとしたら夫はどんどん心理的退行をしていくのでしょう。
言語化ができないと、人間関係を構築する能力は育たない
記事の中にも、
意図的に「ものわかりの悪いセラピスト」を演じて、クライアントが自ら言語化するのを促すことがあるのです。(中略)「うーーーん、わかってあげたいんだけど、もう少し詳しく説明してもらわないとわからないなぁ」などと言ってクライアントの言語化を促すわけです。「言葉」という第三の存在を介在させることで、クライアントの自我の確立が進み、クライアントの人間関係構築能力が育つわけです。
とあります。
相手の気持ちを察して、先回りして気を利かせるってとても美徳のように言われます。
特に夫婦間では、それができる気の利いた妻こそ、妻の鏡である、なんて思われているフシも感じます。
いわゆる阿吽の呼吸って、そうやって察して察して相手の希望を完璧に把握して養われてきたんだと思います。
でも、察し悪く言語化させて、お互いの気持ちをちゃんと言葉にして分かり合って。
それを繰り返す中で、ルーチン化されたことが阿吽の呼吸になっていく。
その方が、ずっとずっと建設的な阿吽の呼吸ではないでしょうか。
その方が、ずっとお互いの気持を理解し合えるのではないでしょうか。
別にあえて物分りの悪い夫婦を演じる必要はないけど、言葉を介したコミュニケーションをないがしろにしないことで、夫婦関係が養われていくことってあるのです。
さいごに!
いま、「史記」を読んでいるのですが、主要な登場人物に前漢の武帝という帝が出てきます。
彼は帝であるがゆえに、全ての願いが叶う。
寝起きに「小便」と言えば尿瓶で受け止めてくれる。
食べたいものを言えば、ほとんど待つこともなく出てくる。
側近たちは、帝の意思を一生懸命察して先回りして動く。
それがいつしか当たり前になる。
全ての人が、自分のためにいるのだと思うようになる。
だんだん、人の気持がわからなくなってくる。
「帝レベルになればそうかもね」
ってことでもない気がする。
家庭内で、冷えたビールが出てくるのが当たり前。
帰ったら晩ごはんがあって当たり前。
子どもがいても、キレイに片付いていて当たり前。
そんな当たり前の積み重ねの行く先が、「妻の気持ちが解らない夫」なのだとしたら、こんなに怖いことはないなぁ。
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